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歴史

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八幡屋礒五郎の誕生

七味唐からしを見出した初代・勘右衛門

長野市の北西に位置する、旧鬼無里村周辺は、通称西山と呼ばれ、日本でも有数の麻(大麻)と和紙の産地でした。この麻と和紙は、善光寺境内のすぐ西側にある桜枝町に集められ、商人の手によって、江戸を中心に全国に運ばれていきました。麻を運んで江戸におもむいた商人たちが、帰途に日用雑貨や食品の類を仕入れ、副業として善光寺周辺で売りさばいていて、その中に、七味唐辛子がありました。

そのような流れの中で、江戸中期、祖先を西山にも持つ初代室賀勘右衛門が、1736年(元文元年)に七味唐辛子を善光寺の堂庭(境内)で売り出したのが、八幡屋礒五郎の始まりです。

室賀氏の源流は清和源氏であるため、八幡太郎義家をはじめとして、源氏の頭領である源頼朝が崇敬した八幡宮から「八幡」を屋号に戴いています。また、本地垂迹説による八幡神の本地仏は阿弥陀如来であり、善光寺門前で開業するにあたり、善光寺本尊の阿弥陀如来を連想する屋号を用いたと伝えられています。
初代の本名は勘右衛門ですが、商いでは礒五郎を名乗りました。こうして屋号「八幡屋礒五郎」として善光寺門前で七味唐辛子の販売を始めました。

七味唐からしを見出した初代・勘右衛門

七味唐からしを見出した初代・勘右衛門

山国信州の七味唐からし、誕生

創業当時は原料の調達が、遠方から大量に仕入れることなどできない時代です。幸運なことに、旧鬼無里村周辺の西山地方は、陳皮以外の六種の原料は栽培に適していました。
前述の通り、西山地方は麻の産地ですから、麻の実にはこと欠きません。また、この周辺の山々にはいたるところに山椒が自生していました。
唐辛子、胡麻、生姜、紫蘇は、委託栽培で近隣の農家にお願いしていました。陳皮はミカンの皮を乾かしたものですから、腐ることはないため、まとめて上方から入手していたのでしょう。
そうして江戸のものとは色も味も違った、山国信州ならではの独特な風味を持った八幡屋礒五郎の七味唐からしが作り出されていったのです。

山国信州の七味唐からし、誕生